大判例

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横浜地方裁判所 平成6年(ワ)3855号 判決 1999年8月31日

原告

甲野花子

右訴訟代理人弁護士

楠田進

梅澤幸二郎

中村眞一

被告

学校法人北里学園

右代表者理事

森口郁生

被告

岡本牧人

右二名訴訟代理人弁護士

畔柳達雄

木﨑孝

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一  当事者の求めた裁判

一  原告

1  被告らは、原告に対し、各自五五〇〇万円及び内金五〇〇〇万円に対する平成二年三月一七日から、内金五〇〇万円に対する平成六年一一月五日から支払済みまで年五分の金員を支払え。

2  訴訟費用は、被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  被告ら

主文同旨

第二  事案の概要

原告は、幼少時よりレックリングハウゼン病に罹患していたが、次第に腫瘍が増大し、圧痛、難聴、耳鳴りなどの症状が出てきたため、昭和五七年八月二七日に、被告学校法人北里学園の付設する北里大学病院(以下「被告病院」という。)の耳鼻咽喉科で受診し、昭和五八年七月一二日に被告病院に入院し、同月一三日に被告病院耳鼻咽喉科設楽哲也医師(以下「設楽医師」という。)の執刀で右耳介前部及び後部の二つの腫瘍の摘出手術(以下「第一回目手術」という。)を受け、同月二八日に退院した。

その際、右耳下腺部にも腫瘍はあったが、さほど大きくはなく、耳介部の腫瘍と耳下腺部の腫瘍を一度に摘出する手術は大変なので、第一回目手術では、耳下腺部の腫瘍の摘出はしなかった。

昭和五九年一〇月一一日ころ、原告の耳下腺部の腫瘍は増大し、痛みもある状態になり、昭和六〇年四月四日に設楽医師の診察を受け、平成二年三月一四日、原告は被告病院に入院し、同日、原告と被告病院との間に、原告の耳下部腫瘍を摘出する診療契約が締結された。

同年三月一六日、同病院岡本牧人医師(以下「被告岡本」という。)の執刀により、原告の耳下腺部腫瘍摘出手術(以下「本件手術」という。)が行なわれた。本件手術は、手術中、約二〇九〇ミリリットルの多量の出血があったため、腫瘍の約三分の一を摘出したのみで、全部の摘出はできなかった。

原告は、同月三一日に被告病院を退院した。

原告は、被告らに対し、被告岡本が本件手術に失敗したことにより、原告に顔面麻痺、耳下部の腫れがいっそう増悪するなどの後遺症が生じたとして、債務不履行又は不法行為に基づき損害の賠償を求める。

第三  争点

一  被告らの過失の有無

(原告の主張)

本件手術に伴う被告病院及び被告岡本の過失は次のとおりである。

1 本件手術中の大量出血の予見義務違反

被告岡本は、本件手術を実施するにあたっては、術前に血管造影検査をすることにより、本件手術で摘出しようとした耳下腺部の腫瘍(以下「耳下腺部腫瘍」という。)及び耳下部の皮下に存した境界不明の柔らかい腫瘍(以下「境界不明の腫瘍」という。)が易出血性であることを予見するべきであったにもかかわらず、これを予見できずに手術を実施した結果、手術中の大量出血の止血のために顔面神経下顎辺縁枝を糸で縛り、耳下腺部腫瘍を全部摘出できなかったことにより、原告に対し後記の後遺症を生じさせた。

2 手術不適応

本件手術前に耳下腺部腫瘍及び境界不明の腫瘍からの大量出血が予見できたとしても、手術中にこれに対処する有効な手段がない場合は、そもそも本件手術による耳下腺部腫瘍の全部摘出はするべきでないのに、被告岡本は、敢えて本件手術を実施した結果、原告に対し後記の後遺症を生じさせた。

3 説明義務違反

被告病院及び被告岡本は、本件手術を実施するにあたっては、その危険性について具体的に原告に対し説明するべき義務がるのに、本件手術の「説明・承諾書」(乙第三号証)を示しただけで、これ以外本件手術に関する口頭による説明をしなかった。

(被告らの主張)

1 本件手術中の大量出血の予見義務違反について

(一) 手術の摘出対象となる腫瘍が易出血性か否かは、術前に造影剤を血管に注射してCTを撮り、造影効果が大きければ易出血性であろうと予想して手術に臨むが、実際に易出血性かどうかは手術して初めて分かるという面がある。本件手術において摘出対象であった耳下腺部腫瘍については、術前の造影検査では、造影効果はさほど著しくなく、耳下腺部腫瘍自体からの大量出血は予想しえないものであった。

更に、被告岡本が原告の耳下部の皮膚を切開したところ、本件手術で摘出しようとした耳下腺部腫瘍とは別の、境界不明で易出血性の柔らかい腫瘍(前記の「境界不明の腫瘍」)を皮下に発見した。本件手術で摘出しようとした耳下腺部腫瘍は、術前の超音波検査で、ある程度境界明瞭であると判断されたが、この境界不明の腫瘍は、耳下腺部腫瘍の手前の皮下に薄く脂肪のように広がり、耳下腺部腫瘍が大きく腫れていたこともあり、外観や触診、レントゲン写真、CT等の諸検査でもその存在は把握できないものであった。この術前に認識しえなかった境界不明の腫瘍は極めて易出血性のものであった。

本件で、大量出血となったのは、耳下腺部腫瘍からの出血が予想しえない大量のものであったことに加え、術前の検査では発見不可能であった極めて易出血性の皮下の境界不明の腫瘍があったためである。

したがって、大量出血をきたしたこと自体について被告らには過失はない。

(二) 本件手術中、被告岡本が、腫瘍の後方断端の胸鎖乳突筋、下方断端の顎二腹筋、前下方断端の順序で腫瘍の剥離を進め、腫瘍の下方裏面を剥離している段階(耳下腺部腫瘍の下方から三分の一程度剥離した時点)で、前記のとおり、耳下腺部腫瘍と境界不明の腫瘍の腫瘍が易出血であったことから、耳下腺の表層を含めた術野全体から大量出血して血圧が低下し、原告がプレショック状態となり、一時も早く止血しなければ生命が危険な状態になった。出血は術野全体からの大量出血であったため、止血方法としては耳下腺内にある顔面神経を傷つける危険を冒してでも耳下腺部腫瘍の断端を糸で縛るしかなく、顔面麻痺の原因はこの止血のための縫合の際、顔面神経の一部(下顎辺縁枝)を巻き込んだためと考える。しかし、右止血方法は原告の救命のためやむを得なかったものである。

したがって、顔面麻痺が生じたことについて被告らに過失はない。

2 手術適応について

本件手術は、第一回目手術の後、原告の右耳下腺部腫瘍が増大したことに対し、治療方法としては腫瘍の摘出手術しかないために行われた。

被告岡本は、本件手術は困難な部類に属するものと判断し、原告に対し、本件手術により顔面神経麻痺が起こりうること、腫瘍を全部摘出できないこともあり得ること、手術の傷痕の形状、大量出血も予想されるので輸血の準備をしておくことなどを十分説明した上で原告の同意を得て本件手術を実施した。

したがって、本件手術を実施した被告岡本の判断に誤りはない。

3 説明義務違反について

被告病院の設楽医師は、第一回目手術の際、レックリングハウゼン病は進行性の疾患であり、今後、腫瘍が増大した場合には、再び手術する必要があることを説明し、昭和六〇年四月四日に原告が家族と共に来院した際、原告の右耳下腺部にかなり増大した腫瘍があり、治療法としては腫瘍の摘出手術しかないこと、耳下腺内には顔面神経が走行していることから、手術の際には顔面神経を傷つけ、術後には顔面麻痺を生じる可能性があることを説明した。

被告岡本は、前記の如く、本件手術は困難な部類に属するものと判断していたので、平成元年九月一四日、平成二年二月二〇日、同年三月六日に、被告病院を受診した原告に対し、本件手術により摘出する腫瘍は耳下腺部の腫瘍であり、耳下腺内には顔面神経が走行しているため、手術した場合、顔面神経を傷つけ、術後顔面神経麻痺を生ずる可能性があること、手術してみないと内部の状況ははっきりせず、顔面神経を傷つけやすい状況にある場合には、腫瘍を一部しか取れずに手術を終了させるかもしれないこと、手術の傷痕の形状、大量出血も予想されるので輸血の準備をしておくことなどを十分説明した。特に被告岡本が初めて原告及びその両親と面談した際、原告の両親は早期の手術を希望したが、原告本人はむしろ手術に消極的であったため、原告のような若い女性には十分納得してもらわないと手術はできないので家族でよく相談するようにと指示した。そのため、原告の親の早期手術の希望にかかわらず、当初予定されていた平成元年の秋ころではなく、平成二年二月二〇日に原告自らが手術に同意して被告岡本を受診した後に本件手術が行われた。

したがって、被告病院が説明義務を怠ったということはない。

なお、被告岡本は、原告に対して、生命の危険が生じる程の出血も起こりうるとは説明していない。しかし、本件手術における出血量が予見不可能なものであったことは前示のとおりであるから、そのことについての説明自体不可能である。

二  原告の後遺症と被告の過失との間の因果関係の有無

(原告の主張)

(一) 本件手術後、原告には左記の後遺症が生じた。

(1) 以前は、右耳付近の腫れがあったのにすぎなかったが、右耳下から顎、口の周辺まで腫れて腫れがひどくなった。

(2) 本件手術により、右耳下の腫れ、右耳下から顎にかけての腫れ、手術後の傷による顔面の醜状が生じた。

(3) 顔面神経症状

口の周囲がしびれるようになり、食物を口の右側でかむことはできず、液体は飲むときこぼれるようになった。右側の口角から空気が漏れ、液体をこぼすようになっており口輪筋が異常を来たしている。右耳から顎、右頬は冷感、痛感、熱感が喪失した。

(4) 三叉神経症状

味覚、涙腺には異常はないが、知覚不全及び右側の咀嚼異常がある。

(二) 右後遺症は、いずれも前記のとおりの被告らの手術時の過失によるものである。

(被告らの主張)

本件手術後、原告に顔面神経の下顎辺縁枝に麻痺はみられたが、通常は半年もすれば水を飲むときのこぼれなどの機能障害はなくなる。原告の主張する各神経症状は、もしあるとすればレックリングハウゼン病の自然経過に伴う腫瘍の増大による三叉神経麻痺の症状であり、顔面神経麻痺の症状ではない。耳下腺部腫瘍を一部しか摘出できなかったことが、右自然経過以上に腫瘍を増大せしめることはない。

三  原告の損害額

(一)  第一次的主張

(1) 後遺症慰謝料 五〇〇〇万円

原告は、昭和四三年一月九日生まれの未婚の女性であり、後遺症慰謝料としては右金額が相当である。

(2) 弁護士費用 五〇〇万円

(二)  第二次的主張

(1) 逸失利益

三六〇二万七六五四円

原告は平成四年四月から神奈川県立栗原高校の図書館の職員として勤務し、年収三七四万九三五〇円を得ているところ、原告の後遺症は後遺障害等級七級に該当し、労働能力喪失率は五六パーセントである。現在原告は二七歳一一カ月であり、稼働可能期間は約四〇年であるので四〇年のライプニッツ係数17.159により中間利息を控除して算定すると逸失利益は右金額となる。

(2) 後遺障害慰謝料

九三〇万円(七級)

第四  争点に対する判断

一  被告らの過失について

1  診療経過等

甲第一号証、甲第一四号証ないし第一五号証の四、乙第一号証ないし第一四号証、乙第一七号証、証人設楽哲也の証言、原告、被告岡本各本人尋問の結果、鑑定の結果及び弁論の全趣旨を総合すれば、原告の診療経過及び病態は次のとおりである。

(一) 原告の幼少時の治療について

原告は、国立横浜病院の紹介で、昭和四六年九月一三日、神奈川県立こども医療センターの皮膚科及び耳鼻科で受診した。その際、右耳下に腫瘍が認められた。その後、昭和四七年八月八日に同病院耳鼻科、昭和四八年八月二七日に同病院皮膚科及び耳鼻科、昭和五〇年四月三日に同病院皮膚科及び耳鼻科で受診した。その後は、三ないし四か月に一度、近医の外来通院で経過観察することになった。

(二) 被告病院における治療について

昭和五七年八月ころ、前記右耳下部の腫瘍が増大し、耳鳴りが生じたことから、原告は、藤沢市民病院の田代直樹医師の紹介で、同年八月二七日、被告病院で受診した。

被告病院の設楽医師は、レックリングハウゼン病による神経線維腫と診断し、昭和五八年五月二八日、神経線維腫の摘出手術を行うことを決定した。

原告は、同年七月一二日、被告病院に入院して、同月一三日、設楽医師の執刀により、第一回目手術を受けた。

第一回目手術は、耳介の前部及び後部に存在していた腫瘍を摘出したもので、腫瘍の剥離は容易であった。この際、出血量は、ガーゼへの滲出約一〇〇グラム、吸引で約八〇ミリグラムであり、輸血はなされなかった。原告は、同月二八日、被告病院から退院した。

設楽医師は、右手術の際、腫瘍が増大した場合には、再び摘出手術を行う必要があることを、原告及びその両親に伝えた。

原告は、その後、被告病院において外来通院によって経過観察していた。

その後、昭和五九年一〇月一一日、原告の父親が被告病院を訪れ、原告の右耳下あたりに腫れがあり、痛みもあると話した。そこで、診察した医師は、父親に、次回は原告と共に受診するように指示した。

昭和六〇年四月四日、原告は被告病院で受診し、翌年手術される予定となった。

昭和六一年六月五日、原告は被告病院で受診し、翌年に手術が延期された。

平成元年九月一四日、原告は被告病院で受診した。このとき、設楽医師は、手術を臨床医として耳下腺部の腫瘍の摘出手術を一五〇件ほど行った経験のある被告岡本に依頼した。

被告岡本は、耳下腺部腫瘍は、約五パーセントの確率ではあるが悪性化することもあり、腫瘍が増大した場合には、脳を圧迫したり、飲み込み、呼吸の障害を起こし、生命に対する危険があることから、治療のため本件手術を行う必要があると判断した。

平成二年二月二〇日、原告は被告病院で受診した。同年三月一六日に本件手術が行われることになり、単純レントゲン撮影、超音波検査及びCT検査が行われ、右耳下腺部に境界明瞭、比較的均一性反射で、周囲の方がやや低エコーの腫瘍が認められた。右腫瘍は、いくつかのくびれを有しており、くびれの間には、高エコーの部分も認められた。腫瘍の大きさは、約四センチメートルかける三センチメートルであると判断された。

また、本件手術にあたり、輸血用の血液六〇〇ミリリットルが用意された。右量は、耳下腺部腫瘍摘出手術の平均的な出血量であり、右量程度の準備があれば、不足の際に新たな輸血用の血液を用意することも可能であった。

同年三月六日、術前検査として、レントゲン、心電図検査、血液検査、尿検査、シアログラフィー(唾液腺造影検査)が行われ、各検査結果で特に異常は認められなかった。

被告岡本は、右検査を実施した結果から、手術に関して、格別異常が発見されなかった上、CT検査でも、摘出が予定されていた部位に血管が多いとは認められなかったことから、造影剤ショック等の危険性がある血管造影検査までは行わなかった。

同日付けで、被告岡本名義の説明・承諾書が、被告病院の外来において、原告に渡された。これには「私は、患者甲野花子殿(二二才)に対しての下記手術・検査・麻酔の必要性、危険性及び合併症などについて説明いたしました。」と不動文字で記載されているほか、手書きで、手術・検査等の名称として「耳下腺部腫瘍摘出術」説明の内容として「耳下腺部の腫瘍を摘出します。顔面神経が耳下腺内を走行しています。顔面神経から発生した場合や、腫瘍内を貫通している場合は神経を切除することもあり、術後顔面神経麻痺を生ずることもあります。」と記載されていた。

そして、右説明・承諾書は、「私は、上記の内容の説明を受け承諾しました。また、上記実施中必要があった場合には、その処置も併せて承諾しました。」との不動文字の下に、同月一四日付けで、原告、原告の父母の各署名押印がなされた上で、入院時に被告病院に提出されたものであた。右説明・承諾書の原告署名は、原告の父親が代筆したものであった。

被告岡本は、平成元年九月一四日、平成二年二月二〇日、平成二年三月六日、被告病院を受診した原告の対して、レックリングハウゼン病は、神経の一部が腫れてくる病気なので、腫瘍摘出によって顔面神経麻痺が起こることがあること、耳下腺内を顔面神経が通っていることから、無理をして腫瘍を全部摘出しようとすると、顔面神経が全部麻痺してしまう可能性があること、その場合には腫瘍の一部を取るだけで手術を終えるかもしれないこと、摘出手術の切開線が残るかもしれないこと、大量に出血する可能性もあること等を説明し、原告が、若い女性であることから、上記の点を十分理解した上で、手術に同意しない場合には、手術はできないと説明した。

原告は、原告本人尋問において、右説明・承諾書の文面を読んでおらず、被告病院を受診した際、被告岡本から、手術の危険性や、腫瘍を全部摘出しないで途中で手術を終える場合もあること等に関しては一切説明を受けていないと供述するが、前記認定の如く、設楽医師は、第一回目手術の後、腫瘍が増大した場合には、再び手術を行うべきであることを説明した上で原告の経過を観察していたこと、原告自らが、両親と共に、設楽医師及び被告岡本を複数回、手術を前提に受診していること、証人設楽医師も、証人尋問において、平成元年九月一四日、原告の手術を被告岡本に依頼した際、被告岡本は原告及びその両親に対して、顔面神経の問題や出血の可能性について説明した、顔面神経の手術の場合、腫瘍を全部取りきることがないことは医師の間では常識であり、何回かの手術に分かれるかもしれないという点は、医師としては当然患者に説明する事項であると証言していること、原告、原告の両親名義の署名押印がなされ、手書き部分もある説明・承諾書が原告から被告病院に提出されていることに照らすと、原告の右供述は採用できない。

平成二年三月一四日、原告は被告病院に入院した。

(三) 本件手術の経緯について

同月一六日、被告岡本の執刀により、本件手術が行われた。原告には、全身麻酔が施された。手術機械として、神経刺激器、唾液腺造影針、涙管プジーが用いられた。手術の手順としては、第一段階として皮膚の剥離、第二段階として、顔面神経の同定、第三段階として、腫瘍摘出、第四段階として、神経切断が存した場合等の修復、第五段階として、創部を閉じる、という五段階が予定されていた。右手術は、まず、顔面を避けて皮膚切開が行われた。右切開方法は、いわゆる弧状切開と呼ばれる方法で、耳の後ろに切開を入れて、首の方に切開がくるというものである。

この方法は、原告の顔面に傷を付けないため選択された。耳後部には、皮下直下から腫瘍が認められた。右腫瘍は、やわらかく、境界不鮮明で易出血性であった。

右腫瘍は、境界不明瞭のため、術前のCT等の検査では把握できなかった。また、原告の皮膚は、全体的にレックリングハウゼン病の症状が見られるため、外観の変化や触診等によっても、どこが腫瘍で、どこが皮膚なのか、区別するのが困難であった。

主腫瘍は、一部胸鎖孔突筋へ湿潤しており、胸鎖孔突筋の筋がでるところまで剥離切除した。腫瘍の下端は、顎二腹筋に沿ってはいるが、境界不明瞭であり、はさみで切除した。後顔面静脈、大耳介神経を切除し、前上方は下顎骨の表層であるが、用指剥離できる部分で剥離した。顔面神経の分枝は認められなかった。この部分より、下顎の裏面へ剥離をすすめたところで、静脈性の出血が多量となった。右出血は、術野全体から生じていた。このため、原告は最大血圧が一〇〇を切り、八〇台まで低下し、ショック状態に陥った。そこで、ポンピングによる輸血が実施された。被告岡本は、原告がショック状態に陥ったことから、腫瘍全体を摘出することを断念し、下三分の一の、頚部に突出している部分のみを摘出することとした。右部分を摘出することにしたのは、突出した部分をそのままにしておくことにより、出血が止まらなくなるおそれがあること、下顎の下縁よりも下には通常顔面神経は走っていないことから、そこを切っても顔面麻痺は起こらないこと、突出した部分を摘出すれば、腫れがひくかもしれないこと、出血量が多いことから、創部が腫れており、一部でも摘出しなければ創部を縫合することができないおそれがあるからであった。手術前のCT検査によると、原告の腫瘍は血管が多く存在しているとは認められず、第一回目手術の際の出血量は、約一八〇ミリリットルであったことから、被告岡本は、原告の手術部位から多量に出血することは予想しなかった。出血部分は、腫瘍がやわらかく、ペアン鉗子で把持できないため、三―〇バイクリルで結紮縫合止血をした。皮下は、三―〇バイクリルにより、皮膚は四―〇ノバフィルにより縫合がなされ、ペンローズドレーンが挿入された。

手術は、同日午前一〇時ころより開始されたが、午前一一時四五分ころには、出血量が一〇三〇グラムを越え(ガーゼ)、正午ころまでは血圧が一〇〇を切り、八〇台まで低下し、原告はショック状態に陥った。手術時の最終的な原告の出血量は、一六五〇グラム(ガーゼ)及び四四〇ミリリットル(吸引)で、合計約二一九〇ミリリットルであり、手術後の創部からの血液の滲出量は約九一〇ミリリットルで、本件手術に関する原告の出血量は、合計約三〇〇〇ミリリットルであった。これは、耳下腺部腫瘍摘出手術の出血量は一般に一〇〇〇ミリリットル程度と考えられていることに照らすと、多量であった。

(四) 手術後の治療経過について

手術後、原告の手術時の傷はきれいだったが、ガーゼ上の滲出が多く、創部の膨張があり、痛みが強かった。しかし、原告の創痛は、自制内のものとなり、原告の本件手術後の症状は、下顎辺縁枝の麻痺及び患部の膨張が認められるいうものになった。

病理組織検査の結果、一部摘出された腫瘍は、クラシカルな神経線維腫の像を示し、唾液腺周辺に肥大した神経が、耳下腺内に神経線維腫が認められ、神経線維腫病に一致するとされた。悪性像はなかった。

同月一九日、被告病院の医師により、両親へ、出血多量のため、腫瘍を取りきれなかった、という内容のムンテラ(手術結果の説明)が行われた。

同月二三日、被告病院の医師から、原告に対して、腫瘍は出血多量のため取りきれず、半分以上残っているという内容のムンテラが行われた。

同月二四日、創部からドレーンが除去され、同月二五日、半抜糸が行われ、同月二六日、全抜糸が行われた。そして、原告は、同月三一日、被告病院を退院した。

同年四月五日、原告は被告病院で受診した。創部の感覚はなく、口唇部に痛みがあった。

(五) 原告の現在の病態

平成八年四月一四日当時、原告の腫瘍は、11.5センチメートルかける6.5センチメートルに増大した。

原告の現在の腫れは、手術時の創部より下方が腫れており、手術による炎症に基づくものではない。

原告は、平成八年八月二〇日、筑波大学神経内科において、神経伝達速度検査を受けた。顔面神経の末端潜伏時間検査により、右眼輪筋と右口輪筋の反応が、左に比較して若干遅延していること、瞬目反射テストにより、右側を刺激した場合と左側を刺激した場合とを比べると、右側を刺激した場合、第一波の反応時間の遅延が認められるほかは正常の範囲内であるという検査結果が判明した。

右検査結果より、右顔面神経の麻痺及び右三叉神経の麻痺が認められるが、これは完全に神経が切れているためではなく、耳下部腫瘍による圧迫のため、神経が延長している結果であると診断された。

2  被告らの過失

(一) 甲第四ないし第六号証、第二一号証、乙第一八号証及び鑑定の結果によれば、次の事実が認められる。

(1) 鑑定の結果は次のとおりである。

レックリングハウゼン病は、常染色体優性遺伝性疾患であり、神経線維腫瘍症1(NF1)と神経線維腫瘍症2(NF2)との大別されるが、原告は前者に罹患しているものである。症状としては、全身の皮膚に多発する神経線維腫、カフェオレ色素斑を主徴し、骨変化、脳腫瘍、眼病変、母斑性黄色内皮腫などが見られる。

レックリングハウゼン病の神経線維腫は、顔面神経や迷走神経などの脳神経や、解剖学上名称のある機能が明らかな大きな神経より発生する場合と、皮膚などに分布する無名の細かな末梢神経組織から発生する場合がある。神経線維腫の腫瘍細胞は、神経線維を含むシュワン細胞より発生するが、双極あるいは三極で長く鋭い先端の突起を持ち、神経の構成部分である神経線維周辺の膠原線維に沿って増殖するため、神経自体が広範囲に腫瘍化し、神経の走行に沿って拡がる。そのため皮膜を欠き、周囲健常組織との境界も不明瞭となる。

したがって、前者の大きな神経に生じた腫瘍においては、神経から腫瘍を分離することは不可能であり、神経を切断して腫瘍を摘出することになる。そこで、顔面神経から腫瘍が発生した場合には、切断するか否か、困難な問題が生じる。

一方、無名の細かな末梢神経では、皮膚などに網目状に分布する神経網に沿って腫瘍が形成され、拡がるので、腫瘍の周辺部では境界不明瞭となり、更に索状に腫瘍化した神経線維が周囲の組織内へ進入している。従って、腫瘍と周囲健常部との切離には、程度は様々であるが、困難が伴い、手術してみないと不明である。手術の方法としては、健常な周辺組織をつけて大きめに切除する方法と、腫瘍の内側で切除する方法が考えられる。耳下腺部では、下に顔面神経があり、前者は不可能である。後者の場合には、出血及び再発の恐れが考えられる。

そのほか、レックリングハウゼン病の腫瘍は、易出血性、境界不明瞭で完全摘出が難しく、再発しやすい、本腫瘍下での顔面神経の剥離は難しく、機能的影響が出やすい、若い女性の顔貌に関する問題が生じることがある、という特徴がある。

腫瘍の発育速度は、良性、悪性に限らず不明であり、これを推測する方法はない。原告の症例は良性腫瘍に分類され、慢性疾患であるので、年単位の発育と考えられる。しかし、レックリングハウゼン病は、全身に腫瘍発現の素因を有し、既存の腫瘍の発育と共に新たな腫瘍の発生する可能性もあり、その発育速度を論じることはできない。一定速度で発育するものでもなく、急速に増大することもある。また、神経線維腫の悪性化により、月単位で急速に増大することもある。

レックリングハウゼン病における手術適応に関しては、機能障害がある場合と整容的場合が挙げられる。前者は、外耳孔周辺の腫瘍により、外耳道閉鎖による伝音性難聴を来している場合などがその代表例として挙げられる。

後者は、腫瘍が外見的に且立つ場合である。症状がないのに審美的欲求により行われる美容整形とは異なる。

若い女性の場合、顔面に顕著な腫脹があり、その原因が病的な腫瘍によるものと判明した場合には、腫瘍が更に増大する可能性もあることから、将来の顔貌への不安も加わって、その除去を望む者が多い。また、レックリングハウゼン病の神経線維腫は、約五パーセントが悪性化するとされていることから、腫瘍を除去することが望ましい。

以上からすると、原告の症例は、手術適応にある。

手術前には、全身の検査として、麻酔、手術を行うために、異常部位の有無をチェックする。EKG(心電図)、胸部レントゲン、血清生化学検査、呼吸機能その他の検査を行うべきである。

また、手術による出血傾向の有無を確認するために、血液一般、出血、凝固時間等の検査を行うべきである。

その他、腫瘍自体に対する検査として、CT検査を行うべきである。右検査により、周辺組織との関係、腫瘍内血流の状況等を知ることができる。

もっとも、本腫瘍は境界が不明瞭であり、CT所見でも当然不明瞭である。

その他、血管造影検査により、腫瘍血管の分布をある程度知り得るが、腫瘍実質からじわじわ出血する微細血管性出血までは把握できない。右検査は、血栓症、造影剤ショック、血管損傷等の合併症に対する危険性があり、必ず行うべきとは考えられない。

腫瘍の摘出は、易出血性であることを前提になされるが、出血量は症例によって異なり、一概には断定できない(一般摘出には一〇〇〇ミリリットル程度と考えられるため、本件手術の約三〇〇〇ミリリットルは多量と考えられる)。

手術の際、大量に出血した場合、いかなる処置を取るべきかに関しては、出血の状況が重要となる。一般論としては、可及的に腫瘍を摘出すべきであるが、判断は術者に任されるべきである。

ただ、出血量が多く、生命に対する危険性が増加した時点では手術を断念するべきである。

本件手術では、生命を第一に重視すること、手術途中で約三〇〇〇ミリリットルの出血があり、手術を続行した場合の出血量が予想できなかったこと、完全摘出の見込みが少ないこと、悪状況下では顔面神経麻痺を生じさせる可能性が大きいことから、続行を断念したことは、その時期と共に適切であった。

腫瘍の一部摘出がなされた場合、残存腫瘍が増大することは、可能性としてはあり得るが、事前に予測することはできない。一般的に、レックリングハウゼン病の神経線維腫は、易出血性、境界不明、神経の近在などの理由により、完全摘出ができず、可及的な切除ができない症例が多いが、特に残存腫瘍が増大したとの報告はない。ただ、悪性化した場合や、腫瘍の残存量が多い場合には増大が起こりうる可能性があるとの報告が学会においてなされている。

前記の如く、レックリングハウゼン病は遺伝性疾患であり、皮膚や神経に生じる神経線維腫の多発や増大及び新生に対してその素因を内在し、特に思春期以降はその症状は顕著となり、手術によって摘出する以外治療法はない。

したがって、腫瘍の増大と本件手術との因果関係を明確にする根拠も方法もない。

なお、原告に存する神経系の麻痺は、顔面神経第三枝の麻痺と考えられる。

(2) 東京都立駒込病院形成外科医長坂東正士が、レックリングハウゼン病に関して以下のように解説している。

神経線維腫症例の皮膚科、形成外科的手術は、皮疹と皮膚の腫瘍が対象になり、目的は整容が主となる。

びまん性の皮膚神経線維腫では、手術は腫瘍内部切除術(減量)になることが多く、出血がコントロールしにくいこと、腫瘍組織の弾力性がないことなどが問題である。大きな腫瘍では、手術は大変に難しく、その効果も一定しない。

手術の目的は、顔の醜形、目、鼻、口、耳の変形や下垂とそれによる機能障害改善であり、整容が主となるが、躯幹から臀部の大きな皮膚神経線維腫では、坐位、臥位での不自由の改善や、外力刺激による腫瘍内出血を防ぐために腫瘍の減量も重要な意味を持つ。

手術の内容は切除が中心であるが、植皮術、局所皮弁法、骨の手術など多岐にわたり大変難しいものが多く、良好な結果を得るためには手術前から周到な計画が必要となる。

びまん性の皮膚神経線維腫の腫瘍は広い範囲を占め、弾力性がなく軟らかいので、大きなものは表面皮膚は皺襞に富み、弁状に下垂する。腫瘍内には血管が多く、固い末梢神経の神経線維腫が混在することもあり、dermal melanocytosisにより、青色から淡褐色を呈することが多い。一般的には、一〇歳以下に発生して徐々に増大し、二五歳を過ぎて新たに発生することは少ない。体表のどこでもあり得るが、顔(眼、鼻、頬周囲)、背、腰部が多い。

手術は、いずれの部位でも広い範囲を占める腫瘍では全切除は無理で、ほとんどの場合整容的効果を目的とする腫瘍部分切除、減量手術になる。

腫瘍内の血管分布は密で出血は多い。無数の止血困難な小出血点とともに、大きな静脈洞とも表現しうる成人指程度に拡張した血管のあることが多く、出血量は驚くほど多くなることもある。また、これらの血管は、腫瘍組織全体が弾力性がないのに似て、普通の血管のようには反応せず(収縮から止血機転、ボスミン利用による止血機転)、結紮も周辺組織がもろいために難しく、ただ圧迫のみが唯一有効である場合が多い。そのため、手術時間を短縮することが重要である。低血圧麻酔、手術部位の高挙位、電気メスの利用、周囲組織の結紮などはやや有効である。低血圧麻酔下、一時間に二〇〇〇ミリリットル出血した例もあった。腫瘍組織に弾力性がないことは、術後の血腫形成、後出血にも極めて不利であり、術後ドレーンを入れて、手術部位をかなり強く弾力性包帯などで圧迫するとよい。血腫形成はよく見られる合併症であるが、後にその部分に腫瘍が再増大することが多く見られる。

手術後の合併症としては、手術後の血腫形成や腫脹がある場合、放置するとその部分が腫瘍組織におきかわるような印象があり、再増大することが見られる。再発といえるかもしれないが、比較的短期間で切除した結果、より大きくなる状態であり、他の手術後では見られない現象である。血腫除去以外に特によい対抗手段がなく、初めに切除する腫瘍量をやや多めに考えておく必要がある。

手術の時期としては、びまん性の神経線維腫では、五歳から六歳くらいから症状が認められ、徐々に増大することが多いが、大部分の症例で、患者が病院を訪れるのは中学校高学年から成人期であり、手術が行われるのもこの時期以後である。

幼児期から変形には気付いているが、腫瘍がかなり進んだ時期になるまで待っている例が多い。大きくなった場合の手術は大変難しいことからも、比較的早い時期、変形が高度になる前からの計画的な手術が重要である。

レックリングハウゼン病の病変は、ほとんどが悪性腫瘍ではなく、症状も肉体的苦痛を伴わないので手術は簡単に考えられがちであるが、患者や家族の心理的負担は大きい。びまん性の神経線維腫では整容的、量的に腫瘍を減少させる部分切除になるが、どの程度のバランスをとり、それをどの位永く保たせるかが問題になる。

大きな病変の場合は、無理をせずに数回に分けて手術を行う一貫した計画が望ましい。その各ステップでは、出血対策、増大を見込んだかなり思いきった量の腫瘍切除、植皮、局所皮弁、ダクロン・メッシュ移植などが最重要である。

予後としては、経過観察中に腫瘍が徐々に増大して何回か手術を行った例も多いが、手術がよくできた部位・症例では、腫瘍の再増大や下垂などについての予後は良好である。一般的に成人例では整容的バランスがよく保たれている。幼児期にみられるびまん性神経線維腫がすべて成人期までに増大するかどうかは不明だが、各時点で相応した整容的効果を目的とする手術は充分に意味があり、患者が望むなら積極的に行うべきである。

(3) 今野昭義が、レックリングハウゼン病に関して以下のように解説している。

耳下腺部腫瘍の治療は良性、悪性を問わず、手術療法が中心となる。手術療法の原則は良性と悪性では異なるため、できるだけ正確な術前診断が必要となる。

血管腫、リンパ管腫、神経線維腫においては、腫瘍は耳下腺内に限局することなく、しばしば周囲組織にびまん性に増殖し、en blocには切除できない。顔面神経主幹または主分枝損傷の危険がある場合には、二個または数個の腫瘍に分けて切除してもよい。血管腫及び神経線維腫は出血しやすいので十分な量の輸血を準備する必要がある。顔面神経原発神経鞘、神経線維腫では、腫瘍とともに顔面神経の一部を切除して神経縫合を行う。

上皮性良性腫瘍においては、顔面神経主幹をあらかじめ露出する定型的手術を行いさえすれば、術後再発が問題となるような顔面神経麻痺が起こることはない。耳下腺瘤治療の難しさの一部は術前診断の難しさにも起因するが、多くは湿潤性増殖が明らかな耳下腺瘤におけるen bloc手術の難しさ、さらに遠隔転移の起こりやすさにある。

(4) 香川県立中央病院耳鼻咽喉科小坂道也らが、レックリングハウゼン病に関して以下にように解説している。

平成五年七月二三日、レックリングハウゼン病による耳下腺神経線維腫の七歳男子の患者に対して、顔面神経を温存し、整容面を重視した可及的な腫瘍切除手術を行ったが、術後、顔面神経麻痺は認められず、整容的にも満足できる結果が得られた。レックリングハウゼン病の根本的な治療方法及び予防法はないが、基本的に良性の疾患であり、時に神経線維腫が悪性化する場合があるが、それ以外では生命予後は良好である。そのため、医学上の問題よりも、容姿の問題がはるかに重要となる場合も多い。現在のところ、治療は整容面を重視した外科的切除が一般だが、末梢神経の神経線維腫の場合、腫瘍の性質上固有の被膜を持たず、腫瘍の進展として浅層では小さく、深層に向かって大きくなる傾向があり、腫瘍を全摘することは困難な場合が多い。文献的には、再発の可能性がはなはだ高いため、整形手術を施行することは見合わせたほうがよいという報告もあるが、一方で可及的に神経線維腫を摘出した症例で増大が見られなかったという報告もあった。

(5) 日本大学医学部耳鼻咽喉科伊藤勇らが、レックリングハウゼン病に関して以下のように解説している。

平成三年一二月一五日、レックリングハウゼン病による耳下腺神経線維腫の六一歳男性患者に対して、美容上の目的及び伝音性難聴の治療目的から手術を行った。

NF1は、美容的には多くの問題を示すが、一般には予後のよい疾患である。しかし、腫瘍による機能的問題が生じることもあり、そのような症例では積極的な外科的治療が必要である。

(6) 国立横浜病院耳鼻咽喉科本橋宣子らが、レックリングハウゼン病に関して以下のように解説している。

平成四年一〇月二一日、左耳下腺腫瘍の一二歳女児患者に対して、圧痛治療目的から耳下腺摘出手術を行った。術後、顔面神経麻痺はなく、経過良好で再発は認められなかった。

(二) 右事実によると、レックリングハウゼン病に関して、医師一般において、次のとおり認識されていたということができる。

レックリングハウゼン病は、常染色体優性遺伝性疾患であり、神経線維腫瘍症1(NF1)と神経線維腫瘍症2(NF2)とに大別される。症状としては、全身の皮膚に多発する神経線維腫、カフェオレ色素班を主徴し、骨変化、脳腫瘍、眼病変、母班性黄色内皮腫などが見られる。

腫瘍の発達速度は、良性、悪性に限らず不明であり、推測する方法もない。腫瘍の発育速度も一定のものではなく、急速に増大することもある。

良性の腫瘍であっても悪性化する場合があり、再発や腫瘍の増大により、機能障害の生じる可能性もある。

また、顔貌に関する問題が生じることもある。

レックリングハウゼン病の神経線維腫は、顔面神経など、機能が明らかで大きな神経より発生する場合と、皮膚などに分布する無名の細かな末梢神経組織から発生する場合があるが、いずれも発症の態様から、周囲の健常組織との境界は不明瞭である。

びまん性の皮膚神経線維腫の治療方法は、腫瘍内部切除術(減量)を実施することになる。この手術は、前記腫瘍の特徴について考慮すると、患者が希望する場合には実施すべきである。ただし、腫瘍内に血管が多く、出血がコントロールしにくいこと、腫瘍組織の弾力性がないので止血が困難であるという問題がある。大きな病変の場合は、手術が困難で、効果も一定しないので、無理をせずに数回に分けて手術を行う一貫した計画が望ましい。

手術の内容は切除が中心であるが、植皮術、局所皮弁法、骨の手術など多岐にわたり大変難しいものが多く、良好な結果を得るためには手術前から周到な検査及び計画が必要となる。

手術前に行うべき検査としては、EKO(心電図)、胸部レントゲン、血清生化学検査、呼吸機能その他の一般的検査、手術時の出血傾向を確認するための血液一般、出血、凝固時間等の検査、周辺組織との関係、腫瘍内血流の状況を知るためのCT検査等を行うべきである。

なお、出血の有無及びその量について知る検査として、血管造影検査があるが、右検査は、腫瘍実質からじわじわ出血する微細血管性出血までは把握できない。また、右検査は、血栓症、造影剤ショック、血管損傷等の合併症に対する危険性があり、必ず行うべきとは考えられない。

そのため、レックリングハウゼン病による陽性腫瘍の場合には、右検査は当時通常行われないものであった。

腫瘍内の血管分布は密で出血し易く、通常六〇〇ミリリットルから一〇〇〇ミリリットル程度の出血があるが、出血量は驚くほど多くなることもある。

そのため、十分な輸血な準備をすると共に、大量に出血した場合には、患者の生命の安全を確保する観点から、手術者の判断で、手術を途中で中止することが必要となる場合もある。

(三)  本件手術中の大量出血の予見義務違反について

レックリングハウゼン病による神経線維腫の摘出手術を行う際、大量出血を起こすことがあることは、医師の間で幅広く認識されていたことであるから、医師は、手術計画を立案するため、血液検査、レントゲン検査等の一般的な検査の他に、腫瘍自体の検査として、CT検査等を行い、腫瘍の構造を把握し、出血量を予見する義務があったというべきである。

ところで、前記の原告の診察経過によれば、本件手術の際、被告岡本は、通常必要とされる手術前の一般的検査を全て適切に行ったが、右検査においては格別異常が認められず、CT検査の結果、右耳下腺部に境界明瞭で、比較的均一性反射で、周囲の方がやや低エコーの腫瘍が認められため、CT検査等で把握した腫瘍の構造等や第一回目手術における原告の出血量から、手術時の出血量を予測し、六〇〇ミリリットルの輸血用血液を準備した上で本件手術を開始したところ、耳後部の皮下直下に、術前のCT検査、レントゲン検査、触診等では把握できなかった、やわらかく、境界不鮮明で易出血性の腫瘍が存在し、右腫瘍から術前の予想をはるかに上回る三〇〇〇ミリリットルもの出血が生じた。

しかし、レックリングハウゼン病の腫瘍が有する、易出血性、境界不明瞭で事前の検査で正確に把握しがたいという特質から、境界不明瞭の腫瘍を把握できなかったのであり、右腫瘍から予想外の大量の出血がみられたのであるから、原告の大量出血に関して、被告らに予見義務違反は認められない。

なお、被告らは、血管造影検査を行っていないことは、前記のとおり、術前の検査結果にはいずれも、侵襲の大きい血管造影検査を必要とするような異常所見が認められなかったのであるから、被告岡本が右検査を実施しなかったからといって、被告岡本に予見義務違反があったとはいえない。

(四)  手術不適応について

前記認定のとおり、レックリングハウゼン病による腫瘍の治療方法としては、摘出手術しかなく、良性の腫瘍であっても悪性化する余地があること、将来の増大により顔貌のみならず、機能的障害が起こる可能性もあることから、患者が希望する場合には、整容及び機能障害の改善を目的とする摘出手術が行われるべきであるとされていた。

被告岡本は、同様な見地から手術が必要であると判断した。

そうすると、被告岡本は、右判断に基づき、原告及び原告の両親に対し、手術により顔面神経麻痺が生じるおそれがあること、腫瘍を全部摘出することはできないかもしれないこと等を説明し、その上で原告が手術を承諾していること、前記の如く、被告らに大量出血の予見可能性があったとは認められないことから、被告らが本件手術を実施したことが、相当ではなかったとはいえない。

(五)  説明義務違反について

一般に、手術のような治療行為は患者の身体に対する侵襲行為であるから、手術の施行に当たっては、医師は当時の医療水準に照らし相当と認められる事項を患者に説明すべきであり、右説明を前提とした上での患者の承諾が必要である。

前記認定のとおり、レックリングハウゼン病の腫瘍は、易出血性、境界不明瞭で完全摘出が難しいこと、術後に顔面神経麻痺が生じるおそれもあることから、治療を行う医師には、その手術の方法やどの程度患者の状態が改善されるかについて説明するほか、手術の危険性や副作用が生じる可能性についても十分に説明し、患者においてこれらの判断材料を十分に吟味検討した上で、手術を受けるかどうかの判断をさせるようにすべき注意義務がある。とりわけ、患者が原告のように若い女性の場合、症状の完治ないしは改善を期待して手術を受けること自体は希望しても、手術を受けるか否かを決断するに当たっては、手術後に顔面神経麻痺が生じるかどうか、生じるとすればどの程度のものになるか等が関心事であることは明らかであるから、この点を十分に説明しなければならない。

これを本件についてみるに、前記認定のとおり、被告岡本は、平成元年九月一四日、平成二年二月二〇日、平成二年三月六日、被告病院を受診した原告に対して、神経の一部が腫れているので、腫瘍摘出によって、顔面神経麻痺が生じるおそれがあること、耳下腺内を顔面神経が通っているので、無理をして腫瘍を全部摘出しようとすると、顔面神経が麻痺するおそれがあるので、その場合には腫瘍の一部を取るだけで手術を終えるかもしれないこと、摘出手術の切開線が残るかもしれないこと、を説明し、原告が若い女性であることから、上記の点を十分理解した上で、手術に同意しない場合には、手術はできないと説明した。

さらに、原告は、本件手術の前にも、レックリングハウゼン病で手術を受けており、その際には腫瘍の一部が摘出されていて、執刀した設楽医師から、原告及びその両親は、腫瘍が増大した場合は、再手術を行う必要性があることの説明を受けていた。

そして、被告病院において、被告岡本を受診した原告が本件手術を希望し、原告の受診の際、原告及び常に少なくともいずれか一方が立ち会っていた原告の両親名義の署名押印がなされた本件手術に関する説明・承諾書(比較的詳細に、説明の内容が手書きで記載され、術後に顔面神経麻痺が生じる可能性があることについての記載がなされている。)が被告病院に提出されていることから、被告らの、原告に対する説明が不十分であったとは認められない。

二  結論

以上によれば、その余の点について判断するまでもなく原告の請求は理由がないからこれを棄却すべきである。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官池田亮一 裁判官梶智紀 裁判官新井章光)

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